中高生のお悩み相談「学校に行けない」

【お悩み】

中学校に行けない不登校です。
いじめられている訳ではなくて、自分の気持ちの問題だと思います。
受験生ということもあって先生からも「勉強しよう」と言われますが、勉強する気が起きません。親にも申し訳ない気持ちです。

 

【回答3STEP】

その① 「正直な気持ちを表現できる自分を認めてあげる」

あなたは正直で、ご自身の心の声に耳を傾けています。実は、これはなかなかできることではありません。とても勇気のいることです。世の中の中高生の多くは、自分の心の声を聞くことを避け、考えないようにしています。私たちは誰しも、問題を抱えています。人生の中で、それに向き合わなければいけない時が、必ず来ます。いつ来るかは、それぞれです。あなたは、少し早く来ただけなのかもしれません。

 

その② 「自分ができることをする」

私たちは、できないことはできません。もし、あなたにとって、学校に行くことができないことであれば、それはどんなに頑張ってもできないことなのです。できないことをできないと悩むよりも、できることを探しましょう。

 

例えば、

① 朝起きる(午前中に起きれればOK)

② 本を読む(漫画でも雑誌でもOK)

③ ご飯を家族と食べる

 

あなたができることを、ひとつ、見つけてやりましょう。そして、それを続けることが大事です。やり終えたときは「今日もできた」と声に出して言ってみましょう。それが、あなたの小さな成功体験となります。小さな成功体験も、積み上げれば大きな力となります。

 

できることをやり続けることで、できることがひとつ、ふたつと増えていきます。そして気がつくと、今までできないと思い込んでいたことも、できるようになることがあります。

 

大事なのは、自分を追い込み過ぎないこと。どうしても調子が悪いときは、医療機関を受診することも、ご自身を守る上で大事なことです。

 

その③「進学したいのかを考える」

中学校は義務教育なので、全員が卒業します。すベての3年生は、来年度は新たなステージに行かなければなりません。高校進学、就職、その他の選択肢があります。今は、通わなくてもよい高校があります。環境が変われば通えるようになるケースもあります。働き方もさまざまで選択できる時代です。人生を長いスパンで考えて、進学した方がよいと思うのならば進学しましょう。

 

しかし、進路は自分で決めること。自分で決めないと、すぐに辞めたくなります。決めるときに「やりたいこと」で選ぶのは、あまりオススメしません。「続けられるかどうか」で判断すると失敗は少ないです。

 

 

 

 

中高生のお悩み相談「人に気を遣い過ぎて疲れる」

【お悩み】

誰にでも気を遣いすぎて疲れることが悩みです。

相手の顔色を気にし過ぎて、相手に合わせて話したり、変に機嫌をとったりしてしまいます。友達と話すときも、聞き役にまわることが多く、自分の話をすることが苦手です。人と話すのは好きだけど、ひとりになると疲れをどっと感じます。周りからは「そんなに気を遣わなくてもいいよ」と言われますが、どうしたらよいのかわかりません。

 

【解決3STEP】

その1「気を遣える自分を認めてあげる」

日本の文化に「空気を読む」というものがあり、空気を読めない人を「KY」と言ったりします。その場の雰囲気や相手に合わせて振る舞うことができるのは、すばらしいことです。親しい仲であればあるほど、人は自分の話をしたがり、相手の話を聞こうとしません。ですから、話を聞いてくれる人は、とても貴重な存在なのです。

 

その2 「自分はどうしたいのかを考える」

あなたは選択することができます。今回の場合は下記のような選択肢が考えられます。

① 今の人間関係を壊したくないから、疲れてもそのままがいい。

② 疲れない人間関係を築けるようになりたい。

③ 自分の話ができるようになりたい。

 

その3「選んだ選択肢にふさわしい行動をとる」

①の場合

特に変わる必要はないので、今まで通り行動しましょう。

 

②の場合

自分の中に疲れのバロメーターを作りましょう。自分の疲れ具合を客観的に見ることが大事です。誰かと話をしているときに「少し疲れているなぁ」「まだまだ大丈夫」「そろそろやばいぞ」など、疲れ具合は時と場合に応じて違うものです。もし、疲れをドッと感じそうならば、その人と物理的に距離を置きましょう。トイレに行って一息ついたり、体調が悪いと言って先に帰るなど、理由はいくらでもあります。「嘘も方便」という言葉があるように、人間関係のスキルのひとつです。

 

③の場合

②をすることで、一緒にいてもあまり疲れない人に出会える可能性があります。そういう人は、あなたと相性がよい人です。だからと言って、いきなり自分の話をするのではなく、「自分もそう思うよ」「そういえばこんなことがあった」など、相手の話に答える形で、自分の気持ちや体験を少しずつお話してみてはいかがでしょうか。また、今のあなたの周りが、疲れる人ばかりなのであれば、合う人をあきらめずに探してほしいと思います。学校という狭い世界は、社会のほんの一部です。社会にはさまざまな人がいます。あなたの話を聞いてくれる人がきっと現れるでしょう。

宗像神社(静岡県)

東海道清見ヶ関方面と逆に行くと宗像神社があります。

航海の安全を祈る神社で全国にあるそうです。

清水港に近い海の街、興津にもあるのですね。

宗像神社 由緒

宗像神社 鳥居

宗像神社 拝殿

境内には誰もいませんでした。

拝殿でお参りしたときに、風が吹いて紙垂がすごく揺れた気がしました。

神様がいらっしゃったのかな、と思えた神秘的な時間でした。

 

神社やお寺は涼しいですね。

猛暑日なのに、本当に不思議です。

 

日本中のアスファルトをめくり、電気を消したら、もっと過ごしやすくなるのだろうなぁ。

以上、興津の旅でした。

JR興津駅

 

清見寺(静岡県)その2

お能の名所を巡る旅。

清見寺の鐘楼について。

清見寺 鐘楼

この鐘にまつわる伝説をご紹介します。

 

昔、最愛の一人娘が人買いにさらわれ、行方知れずになりました。

その母は、半狂乱となり、娘の行方を探し全国を歩き回りました。

 

たまたま近江(滋賀県)の三井寺に参詣したときのことです。

三井寺で鳴る鐘の音を聴いた母は、こう言いました。

 

「なんとまあ、この鐘の音は、故郷の清見寺の鐘の音を思い出させるではないか」

 

不思議なことに、そのとき娘も三井寺にいて、母の発する「清見寺」という言葉を聞きいたのです。

 

娘が辺りを見ると、そこには母がいました。

2人は鐘の導きにより再会を果たしたのです。

 

※「清見寺畧記」参考

 

この伝説は、お能三井寺の物語と大きく重なります。

今回の旅は、お能三井寺の物語をより面白く、説得力のあるものにしてくれた気がします。

清見寺(真ん中の建物が鐘楼)

 

それにしても、暑かった。。。汗

 

 

清見寺(静岡県) その1

お能の名所を巡る旅。

清見ヶ関から清見寺へ。

と言っても目と鼻の先です。。。

清見寺 入り口

清見寺の門と境内の間には東海道線が走っています。

線路を超えて、境内に入ります。

清見寺 山門

清見寺 大方丈

写真中央は、徳川家康公が清見ヶ関の梅をとらせて接樹した「臥龍梅」。

清見寺 葵の紋

名勝 清見寺庭園

清見寺には立派な鐘楼があります。
この鐘には伝説があるそうで、なんとお能三井寺の物語と重なるのです。

知らなかった!

 

次回は清見寺鐘楼について報告致します。

 

 

清見ヶ関

お能の名所を巡る旅。

清見ヶ関跡に行ってきました。

9月に行くお能の会で上演される「三井寺」の予習のための旅です。

 

東海道を歩きます。

東海道は今の国道1号線。

この道が京都につながっていると思うと感慨深いです、

東海道

 

三井寺」に出てくる清見ヶ関を確認しました!

清見ヶ関跡 1

清見ヶ関跡 2

これだけ。。。

 

しかし、清見ヶ関の鎮護とされた仏堂がありました。

それが清見寺です。

次回は、清見寺のご報告を致します。

 

祇王4

こんにちは。

お能の謡本を読む会です。

 

「如何なる神なりとも佛なりとも、祇王があらん程はご対面は叶ふまじき由仰せ候ふに」

(いかなるかみなりともほとけなりとも、ぎおうがあらんほどにはごたいめんはかなうまじきよしおおせそうろうに」

 

【単語】

如何なる >>> どのような、どういう

>>> あいだ

>>> 趣旨、旨

仰せ >>> おっしゃって

候ふ >>> ございます、「あり」の丁寧語

 

【文法】

なり >>> 〈断定〉の助動詞「なり」の終止形

※ 「である」と訳します

とも >>> 〈逆接の仮定条件〉の接続助詞

※ 「たとえ〜でも」と訳します

ん(む) >>> 〈婉曲〉の助動詞「む」の連体形

※ 「む」は通常〈推量〉の助動詞ですが、文中で連体形になるときは〈婉曲〉の意味になることが多いです。「〜ような」と訳します

まじき >>> 〈打消推量〉の助動詞「まじ」の連体形

※ ここでは「〜はずがない」と打消の当然で訳します

>>> 〈感動・強調〉の間投助詞

※ 「〜であるよ」と訳します

 

【現代語訳】

「(清盛様は)たとえどのような神であっても佛であっても、祇王がいる間は対面は叶わないはずだということを、おっしゃっておりましたよ」

 

これは、佛御前が清盛に会いたいと訪ねて来たときの、清盛の回答です。

佛とは、仏教の仏様と佛御前がかかっています。

どんな神様や仏様でも、祇王御前を越える者はいない。

祇王 is No.1ということです。

 

かといって、佛御前をおとしめているわけでもありません。

仏様とかけているのですから、表面上はリスペクトしています。

 

佛御前など興味がないから会わないということを、遠回しに上手に表現しています。